私が前に住んでいた所の近くには、心霊スポットと噂される旅館の廃墟がありました。
開けた住宅地になっている先には旅館の建つ小高い丘があるのですが、
なぜかそこだけ林みたく木々が鬱蒼と茂っているのです。
旅館が作られた経緯などは、ずっと地域に住んでいる老人などでも知らないらしく、
木々に隠れてボロボロになった屋根だけが見える様はとても不気味だったのを覚えています。
昼間でもあまり日が当たらず、常に陰気な雰囲気を出している旅館には、
当然のように危険な噂がたくさんありました。
「経営に失敗したオーナーが家族や従業員を皆殺しにして埋めた。」とか
「本当は旅館じゃなくて旧日本軍の秘密基地で、たくさんの捕虜が人体実験や拷問を受けた。」とか
陰湿な話を私は何度も聞きました。
噂はどれもが他愛もない物ですが、どの噂にも一つだけ共通していることがありました。
それは夜更けになると旅館から笑い声が聞こえてくるというのです。
そして、夏に差し掛かったある日、
私は小遣い稼ぎに新聞配達のアルバイトを始めました。
周知の通り、新聞配達は朝が早く、出勤するのなんてほとんど深夜に近い時間帯です。
販売店に徒歩で向かっていた私が、旅館のある丘の近くを通りかかった所、
突然に鼓膜が破れそうなくらい大きな笑い声を聞きました。
何だと思い慌てて耳を塞いだ私でしたが、
近隣の家から笑い声に気が付いた人が飛び出して来る様子はおろか、窓を開ける様子もありません。
工事をしているみたいにうるさかったのに、私しか聞こえないなんておかしいに決まってます。
冷汗がダラダラと出てきた私はとにかくここを立ち去りたい一心で足を速めました。
しかし、笑い声は止まりません。
それどころか段々大きくなっていく一方です。
混乱が頂点に達した私は叫びました。
「その笑い声! やめろ!」
すると、ボイスチェンジャーで低くしたような不気味な声がこう言ったのです。
「なら、お前が笑うか? ヒャッハハハハハ。」
その声を聞いた後のことはよく覚えてません。
気が付いたときは、ぐっしょりと水の中に飛び込んだみたいに汗まみれになって新聞販売店の前にいました。
それから私は何があっても旅館に近づいたことはありません。
あの笑い声はもう二度と聞きたくありませんから。