北海道北見市にある上川から網走までを繋ぐ、道路の横に作られた慰霊碑の事です。
当時北海道開拓とロシアからの南下政策対策で物資運搬のための道路開発に必要な人手を、
失ってもあまり影響が少ないからとの事で囚人を使った事が始まりです。
元々囚人の強制労働により作られた道路ですが、
あまりの環境と労働の過酷さから逃げ出す囚人が後を絶たないため、
逃げないように囚人に鎖をつけて労働させて、過労死した場合工事中の道路に埋めたとも横に放置されてたとも言われる場所です。
当時囚人には人権が無く、あまり食事等を出さず過酷な労働を強いたため、
栄養失調と過労で亡くなる可能性がすごく高かったのですが、
囚人が亡くなれば食事の負担が減るので、労働状況は改善されず、
亡くなった囚人には土をかぶせた土まんじゅうで簡単な墓を作っただけで工事を進めてたため、
完成直後はあちこちに土まんじゅうがある状態でした。
在る程度道路が改善・整備されるにたびに土まんじゅうが消え、
今では3つほどの土まんじゅうが残るだけですが、掘り返すと遺骨とともに囚人逃亡防止の鎖が出てくるとの事で、鎖塚と名前が付きました。
実際ここでの強制労働に引き連れてこられた囚人は1000人近くいて、
亡くなった囚人の数は212人にものぼり、過労と栄養失調で実に20%近くの方が犠牲になっています。
その恨みが強いのか今でも夜中にこの鎖塚の近くを通ると鎖を引きずる音や、
恨めしそうな顔をした作業着を着た人の目撃例があります。
もし鎖の引きずる音や、作業着の人を目撃した場合はすぐにその場を逃げないと、囚人の霊に襲われると言われております。